安芸高校同窓会総会記念講演(2006年7月)
演題「障害を持っても高齢になっても輝いて生きる」
講師 樋口恵子氏(高校第二二回、昭和四六年卒)
障害を持ったこと
私が自分に気づいたときにはカリエスという障害を持っておりました。森沢病院で手遅れ寸前で「これはカリエスという病気ですよ」というのが発見されたのが一歳半のことでした。それ以来、どうも私は人とは違うらしいというふうに思いまして、私は人とは違うのだから一生懸命生きていかないといけないんだなというふうに、自分の中では自分の障害というものをみつめてきました。子どもの時にはいつも、周りの方から「恵子ちゃんは障害があるのにえらいわね」、「障害があるのに明るいわね」というふうに褒められました。しかし、それは私にとっては褒められることよりも、褒めてくれることを打ち消すぐらい「障害」というものは大きいものなのだということを学んだことでした。だから、障害を持った自分というのは何でここにいる意味があるのだろう、家族の中に私がいることが本当にいいのだろうかという思いもかかえながら、自分はどうやって生きていくのか、自分の生きている意味を見いだそうと一生懸命に生きた十代だったというふうに思います。
幼稚園に入るころには、治療が完了して、一年遅れで安芸の幼稚園に入り、 第一小学校に入って、中学校に入った時に歩きにくくなって、それが再発の兆しでした。歩いてはいけない、動いてはいけない、動いたら体が悪くなると言われ、また森澤病院に入院をしました。そのあと母親に勉強しながら治療ができるところがあるから行ってみないかと勧められ、高知の朝倉にある子鹿園という肢体不自由児施設に中学校二年になる時に入りました。
最初は生まれ育ったこの地域で障害のない子に交じって普通に生きてきた私は、ある意味いじめの対象でもあったし、しんどいことも色々あって、障害がある子ばかりの中だったら安心できるかなと思って行きました。それが全く異文化の世界で、衝撃的なことがたくさんありました。
障害を持っているから、障害を克服して生きていかなければいけないのだからということを、先生たちからは色々言われましたが、私が施設で学んだことは、やはりここは人が生きるところではないということ、私は自分が人と違うという事を早くから気付いていたので、自分のことは自分で説明しなければと思っていました。
それは私が七歳の時に、母親が「けいちゃん人にお年を聞かれたら、お年は七つで口は二十歳と言いなさい。」と言われるくらいにおしゃべりだったというか、自分のことをちゃんと人に説明をするということを、心がけてきました。しかし、施設に入った時に、自分の事を説明することがわがままだと言われました。簡単なことなのですが、施設に入って三日目に総婦長さんが「慣れましたか?」と部屋を回ってきた時に、「足が冷えるので家からタオルケットか何か持ってきてもらっていいですか」と聞きました。そうしたら、「一人だけそんなわがままは許しません」と言われまして、ここでは、そういうことを言うことはわがままだと言われるのだということを学んだわけです。
施設で私が、なんとかこの時期を生き抜くために習得した方法というのが、「すいません」と「ごめんなさい」と「ありがとう」の三つを上手に繰り返し使うことでした。そういうことをしながらなんとか生き抜いてきました。最終的には私は、ここにいても自分の展望はないと中学校を卒業した時点で思いました。それで父親に「私はここにいる意味を見いだせないから連れてかえって欲しい。」いう風に手紙を書きました。父親はその手紙を受け取って、一日ぐらいは悩んで、いろんな人にも相談して、結局は手紙を受け取った翌日には迎えに来てくれました。子鹿園にいたときは二年間ベットの上で全然動かず、寝たきりでした。ご飯を食べるのも、排せつをするのも看護婦さんや保母さんに、「すいませんお願いします」 、「ありがとうございました」と言って処理をしてもらう生活をしていて、やはり心の中は、毎日傷つくことも多く、すいません・ごめんなさい・ありがとうを繰り返しながら生きてきました。学校教育は中学校までしか受けられなくて、高校受験を県教委の方に、ベットで寝たままで受験できないかと、養護学校の先生に頼んでもらいましたが、できなくて、中学校卒業したあと、何もできない状態で施設にいるだけの暮らしに 耐えられなくて戻ってきました。
その翌年には安芸高の商業科に入りました。だから私は、小学校一緒に学んだ人より一年遅れて、安芸高校に入り、安芸高校を出た後、大阪の大学に入ったりという感じで、二年間普通の人より遅れたテンポで進んでいきました。本当に、自分の生きている意味は何なのだろうといつも探していたような気がします。
結婚生活
二十歳の時に結婚というか、一緒になった人は、私が子鹿園で施設生活・療養生活を送っているときに日本中を回っているボランティアで訪ねてきてくれた車いすのお兄さんです。 早いもので35年も一緒に暮らしていますが、今も仲良くやっております。
その夫からたくさんのことを教えてもらって、本当に障害を持っていきいきと生きるというお手本というか、障害を持っていても、ここまで可能性を伸ばして生きて行かれるんだと思わせてくれる人でした。その夫のそばで16歳も年下の私は、育くんでもらったというか、愛情をこめて育ててもらったという感じで、車椅子だから私の顔だけが後ろに出るという感じで人と私の間には必ず夫の姿があって、私はそれで守ってもらいながら人と接するということをしていくことで、施設で傷ついたものというものを癒していけた気がします。
障害者運動へのかかわり
当時日本の障害者運動の最先端をいっていた障害者リーダーの人にもそういう形で接触しました。私が一番刺激を受けたのが、アメリカの自立生活運動という『障害をパワーだエネルギーだ』といって活動している重度の障害を持っている人たちの活動が私を突き動かして、ここまで引っ張って来てくれたような気がします。
1981年というのは、今から25年前になりますが、障害者の世界も国際障害者年で世界の窓がどっと開いたという感じでした。世界の障害者の組織が生まれたのも1981年でした。それはどのように生まれかというと、障害者はそれまでお医者さんや教育者や福祉関係者に守られ、育てられるという受け身の生き方しか許されてこなかった。
でもそうではなくて、自分たちが一人の人間として、きちんと教育を受け、社会的トレーニングを受ければ、どこまででも可能性を広げられるという、アメリカや北欧などの福祉が進んだ国の障害者リーダーたちが、重度障害者でありながら、ドクターになったり、弁護士になったり、社会的な地位を持った人たちが世界リハビリテーション会議というのに参加しました。それは、今までお医者さんとか先生とか、福祉関係者とか、専門家といわれる人のところに障害を持った人が行って 、自分たちの声をきちんと聴くべきではないか、あなたたちは私たちにサービスすることを仕事とするわけだから、障害を持っている人の声をきちんと聞いてください。 その形として、役員を二人選ぶのであれば、そのうちの一人 は障害を持っている人を選ぶべきですということを国際会議で提案したわけです。
そしたら、圧倒的に専門領域のことを学ぶ人が多くて障害を持っている人がほんの一握りだけしか参加していない会議だったので、否決されました。それに対して、障害を持ったリーダーは、私たちはあなた達と一緒にやることを望みません。私たちは私たちの声を発信する組織を作って、あなた達を動かし、そしてあなたたちを変えるために私たちは動いていきますということを宣言しました。
それが1981年の国際障害者年の12月にシンガポールで開かれた世界会議のことです。私はその会議には、夫が日本から参加した人たちの事務局長という職責を持って関わっていたので、それをお手伝いするサポーター・ヘルパーという形で参加しました。世界中の障害者が、アフリカからは民族衣装を着た人が木を杖にして、車いすがなくて足に皮を巻き付けて膝で立って歩いているとか、そんなさまざまな生き方をしている人が一堂にシンガポールに集まっていました。それを見て私は、世界はこうやって動いているんだと感動しました。障害者問題は自分の問題ではなくて、社会の問題、国際的な問題、人類の問題として一人一人が大事にされる社会をつくっていかなければ、いつも弱い心で泣かなければならない子供たちはい続けるのだなとつくづく感じました。そういう「障害者インターナショナル」という動きも私にとっては大きな刺激で、世界への窓が開いた感じでした。この間シンガポールで会ったような人たちと翌年から相互交流ができ、広がりが出来てきました。そして、その組織も日本に生まれ、育っていきました。
私自身は障害を持った人が、障害を理由に差別されない社会、だれもがあたり前に一人の人間として生きていける社会を作っていきたいし、その一員として自分が生きていたいと思って関わってきました。「障害を持っているとかわいそうね」とか、「親御さんは本当に大変ね」とか皆さんが日常的に言われる言葉ですけれども、今の私にとっては障害を持ったことは大変なことではありません。自分にとって大きな宝物を得たというか、これを原動力にして安芸から飛び立って東京で、そして世界に発信してというふうに動いてこられたという意味では、障害を持ってなかったら 私はどんな人生を送っていましたかって誰かに聞かれたことがありますが、やってないから分らないと答えるしかなかったのです。障害があったから大変なこともあったけれど、それを振り切って突き進んでいこうという強さを得られたというのは、私にとって障害というのは既に30代くらいからは、マイナスではなく積極的なプラスのもので、自分にとっては宝物だったんだなと今となっては言うことが出来ます。
障害者の自立とは
私たちがアメリカから仕入れてきた自立生活運動というのは、日本の障害者運動を変えることができました。もちろん変えつつあるということですが。私たちの組織が日本の中で全国組織として動き出す発会式をやったとき、朝日新聞の社説に、これまでの受け身の「すみません・ごめんなさい・ありがとう」 と受けとる福祉でなくて、「自分たちが必要な物をつくり出す当事者のパワーが誕生した」「哀れみの福祉さようなら」 と書いてくださいました。私たちは、哀れみや庇護の対象ではなくて、自分たちが生きていきたいかをきちんと発言し、そのために社会を整備するように社会に求めて、そして一人一人が生き生きと生きられる社会を作っていこうという運動を展開してきました。
その中でたくさんのことを学び、そして、今私たちは一生懸命アジアを支援しています。私たちはアメリカから伝えられてきた運動を日本型に置き換えて、日本の家族関係や様々なことを考えながら作り変えてきました。それを今度はアジアに発信をして、アジアの障害者運動を自分たちが尊厳をもって生きられるために自立生活運動を展開していってほしいと言って、支援をしています。
この間、7月に帰ったスリランカの24歳の女性も10ヶ月の研修を終えて帰っていきました。毎晩インターネット上の電話で電話をくれます。三ヶ月日本語を勉強しているので、日本語がちゃんとしゃべれるようになっています。また日本に来たいと言っています。私も、スリランカで自立生活のためのセミナーをやるときは、必ずサポートするからと約束しています。彼女には1年以内にそれをするからと是非手伝って欲しいと頼まれています。
個別のつながりもあるし、パキスタンの地震があっときも、組織としてパキスタンに対して、日本の古い車いすを修理してスリランカに送ったり、みんな募金をしたお金で医薬品や毛布を買って、避難場所に来られないような遠くにいる障害をもった人にも、必要な物が届くように支援したりしました。パキスタンやスリランカなどの途上国の国々の仲間と、インターネットでつながる時代ですから、交信が出来て、何か送ればすぐ「ありがとう」と返事がくるというような中で支援を続けています。
それは、私たち自身がよその先進国から学んで、自分たちが、この運動が社会を変えていくのに必要な物だとたどり着いたからです。自分たちがいるアジアという地域、しかも家族型福祉が日本よりも強烈なアジアの国々に対して、あなたがどう生きたいのか、あなたがどこでどんな生活をしたいのかあなたが決めていい、それを決めたら、支援をする方法をたくさん私たちは持っているということを伝えながらやっています。
このところ時代が早く動いていて、社会福祉基礎構造改革というこれから高齢社会を考えて、福祉制度はどうあるべきかというのが動き始めたのが98年あたりからなのですが、ここ3・4年は国政がもろに私たちの暮らしに響いてくるというのを痛感しています。小泉政権になってからは、国会がすごく近いものになりました。
私たちは、この制度が作られるらしいとなると、その制度を読み尽くします。問題点を分析して、これについてこう思う、これについてはこうでなくてはいけないということの問題点を書き出しては、必要な部署、厚生労働省に行くことが多いわけです。国会前にもしょっちゅう行くことになって、国会前が日常的な交流の場になっています。
障害者自立支援法の問題点
この四月から、障害者自立支援法というのが施行されました。名前はいい法律です。自立支援法ですから。そんな法律が通ったら、障害者は自立して生きていきやすくなるという法律なのかと思われますが、そうではないのです。障害者自立支援法は私たちの間では、障害者自殺支援法とか障害者自殺応援法というくらい悪い法律と考えています。
地域の作業所で、単純作業でも一ヶ月五千円でも七千円でも収入をもらっていました。その収入はあるけれども、それから通所のバス代、利用料ができたら、その働く分のお金の三倍くらいは納めないといけないという制度に変わったわけです。だから、安芸の伊尾木や色々なところに作業所があるけれども、自立支援法になってどうなっているのが気がかりです。 働く場所と認められた所は、最低賃金は守られるけれども、働くために移行するための訓練施設となった作業所は、二万円という利用料を払わなければ、働いて七千円を得ることができないといういかにも矛盾した法律が出来てしまいました。
私たちは、この法律に反対するために国会前で抗議行動を何度もやりました。仲間内で自分たちの気持ちを出し合いながら連帯していくという意味で、マイクをバトンタッチしながらみんながスピーチしていきます。また、委員会に傍聴に入ったり、国会に傍聴にはいったり、人前で話すのが慣れてしまいまして、みんなマイクを持たせると堂々としています。普通の人たちよりも本当に力強い人になっています。ただ制度自体があまりにもひどいのです。それが10月から本当に実施していくので、どんな事態になっていくのかと、考えられない大変な時代になってきたと思います。本当に私たちの生活に直接に結びつく法律が、国会で議論され成立する。その通っていく過程があまりにも一人一人の暮らしを無視したところで行われているというのをつくづくと感じています。
四月から自立支援法が通ったのと同時に介護保険も見直しがありました。ひどい見直しです。今まで通えていた人たちが、訓練をすれば介護が少なくて済む人は訓練を受けられるようにするけれども、訓練をする期間も区切り、一定の期間以上はなしとか、今まで要介護度が5だった人は4になり3になり、2とか要介護度が低かった人も要支援ということで、支援は必要かもしれないけれど、介護は今は必要ないというような位置づけになりました。高齢者の世界も、税金を取れる人は高齢者とみられて、税金を取り立てられています。文句を言わずに取り立てられるのは高齢者だけみたいな社会になっています。年金生活の人たちにも税金がどんどん入り込んできて、とりたてられる、介護保険の料金が上がっていく、こんな変わり方でいいのかなというような社会が展開されています。これは危ないと思います。
私たちの年代で言うと、高度成長のなかで生きてきた人間だから、少し前の年代の人たちとは違うと思うのですが、本当に格差がついてきているという感じを持ちます。みなさんはどうですか。格差社会というのは、高齢者とか障害者とか母子家庭、子どもといわれるような弱い人たちにひずみがくる。弱い人たちがだんだん叩きのめされていくという社会という気がしていまして、これは何とか地域の力で変えていかなくはいけないと思っています。
自立支援法の勉強会をもつのですが、その勉強会に精神障害で引きこもりの息子さんを持ったお母さんが、「うちの子は私がいるうちは何とかなるけど、私がいなくなって兄弟には見せられない。」と言って、子殺しして親は自殺みたいなことをほのめかすわけですけど、私は「お母さんは、子どもを殺す勇気があるんだったら、子どもを捨てて自分が出て行ってください。子どもは一人になったら一生懸命考える、一人でどうやったら生きられるか考えると思います。お母さんがいるうちは考えないかもしれないけれど、お母さんがいなくなったら考えます。殺す勇気があるのなら、子どもを捨てる勇気を持ってください。」と言っています。「お母さんが子どもをかかえている間はだめですよ、捨てる勇気を持ってください。そしたら、息子さんは自立します。私たちもちゃんと支援できます。」と言ったのですが、一昔も二昔も前にかえったような悲惨なことになりそうな社会状況のなかで、私たちはどう生きるのか、私自身は55歳になって、これから終末期の生き方をしていこうと思っているのですが。
この前から酸素療法をしていまして、常に酸素を吸わないといけない。今までは、12時間自宅にいるときに酸素濃縮機械から酸素を送り込むということをやっていましたが、先生からそれだけ体力が落ちていたら、24時間やらなければいけないと言われたので、来週の月曜日からやります。私は、肺の力がカリエスのせいで弱いのです。肺活量は600くらい。楽しみのカラオケも歌えなくなりつつある。これからは、常に酸素を、生活の中に入れながら、移動していくわけだから何か美しくないなあと思っています。
そうしたら、友達がルイヴィトンのバックに酸素ボンベを入れていったらと言ってくれるのですが、どんな風にやっていけば人生の最終章を輝いて生きていけるのか、自分でも模索し続けていきたいと思っています。
父の介護で学んだこと
私は、父親を安芸で介護しました。父親は私が施設から出たいと言った私の言い分を聞いて、私を迎えに来てくれました。そして、私を守ってくれた父親の最期を、姉や兄嫁と50代の女三人で、介護保険を使いながら、みてきた中で、安芸というところが、本当に身近なものになってきました。
やはり、年をとってから最後を生きるのは安芸で生きたいと思って、来年末か再来年初めには、帰ってこようと思っています。父親を介護する中で、介護というと大変大変と言って、「そんなえらいことをあなたがやれているの」と言ってくれますが、大変というよりも父親をみんなで看取ることができて本当に良かったと思います。父親からたくさんのことを学んだし、自分がこれから最後を、夫は私より16歳も年上なので順当に行けば私がお見送りをしないといけないので、その心構えとか関わり方とか、父親は私たちに伝えてくれたなと思います。若いときはお酒を一杯飲んで心配な父でありましたが、すごくわたしたち子供のことを大事にしてくれ、子供に感謝してくれ、最期にも「ありがとう」と言って亡くなりました。それを見守る中で、介護することは大変なこと以上に学ぶことがたくさんあるということを教えてもらいました。その時、私自身は介護される側でいた自分の重荷というものもなくなりました。
介護している人は、介護してくれている人で学んでいることや得ていることがたくさんあるのだということが分って、自分が介護される側で生きてきたことの理解が出来たというか、じゃあ大丈夫だ、親や周りの色んな人にお世話になってきたけれど、それはそれで、私を援助することで学ぶことがたくさんあって良かったのだろうと考えることができるようになりました。これからも酸素をつけながらも自宅ではヘルパーさんをお願いしながら生活を成り立たせているわけですが、これからも輝いていきていきたいと思っています。
気持ちよく、輝いて生きるために
そのために何が大事なのかと思ったことは心か体に負荷をかけない、しんどいと思うことは出来るだけ自分で取り除いておくこと、人に伝えておくことだと思います。私自身は酸素が体に回っていく量が少ないわけで、体に行かなくても脳に一番先に優先して酸素が行くらしいのです。私の酸素飽和度っていうのは、ちょっと歩いただけで70数パーセントまで落ちるということで、医療関係者からすると脅威の体で生きているらしいです。酸素が脳にまわりにくいということは、認知症が始まるのかなあと思うわけですが、その時隠さないで、ちょっと物忘れがひどいと感じたときにちゃんと身近な人に伝えていく、気をつけておいてねと自分を開いていくことが大事だと思います。自分のことを認知症を、周りの人に感づかれないようにしようだとか思わないで、開いて伝えて相手の人にも理解を求めて共に生きるというのが大事なのではないかと思います。
55歳というのは私にとっては定年の年だと思っていたので、一応第一線からは今年の6月にひくということでいろいろな所を切りました。そして、自分を身軽にしてやりたいことをやり続けていこうということで、自立生活運動という障害者が当事者として力強く生きるために必要な方法を日本に輸入して広めてきた立場から、これから若い人たちをそういう側面から育てていくようなことをしようと思います。
社会的にも樋口恵子というと評論家の樋口恵子さんとよく間違えられますが、私も「障害者福祉の樋口恵子です」と、名前も一応知られていますので、今の障害者問題などについて、私が社会との発信役というかつなぎ役となっていきたいと思っています。これからは安芸でできること、したいことからはじめていきたいと思いますので、皆さまにも、是非これからの生き方にご協力いただけたらと思います。20歳まで安芸で住んで、35年間東京で住んで、また戻ってきて、私の人生設計、肺の力だとあと10年ぐらいかなと思って、あと10年を何とか輝いていかれたらと、その元気な姿を見てきた周りの人が元気になってくれればいい、元気の灯火をいっぱい広げていけるような役割をしていけたらいいなと思っています。ありがとうございました。