「子どもと障害」

 私は1歳半ぐらいのときに脊椎カリエス(結核菌が脊髄を食い荒らす病気)が発病したんです。コルセットという鎧のようなものを何年か付けていた頃、隙間に蜂が入ったことがあって、怖くて大泣きしたんですが、そのとき「あっ、自分は人と違うんだ」と感じたのが最初の思い出です。
 それが三つぐらいのとき。それからずーっと「私は人とは違うんだからちゃんと生きていかなくてはいけない」とか、「親を悲しませてはいけない」とか、すごく小さいながらに思っていたようで、だけど「自分と人とは違うんだから、ちゃんと自分のことを説明しないと、人はわかってくれないんだ」と感じていて、「おしゃまだ」「おしゃべりだ」とか、「理屈っぽい」とか言われていたんです。実は母親の名言というのがあって、「ケイちゃん、人にお年を尋ねられたら『お年は七つでお口はハタチ』って言いなさい」って言われていたんです。
 障害があるからどうこうというトラブルは家庭ではなかったのですけど、やっぱり「自分がいることはこの家にとっては不幸なことなんじゃないのかな」という思いを、いつも自分の中に持っていて、だから、その分を取り返すために「イイ子でいなければいけない」、それから人は私のことをわかってくれるわけじゃないんだから、「私がしたいこと・言いたいことはちゃんと伝えなくちゃいけない」と、ときには相反する感情でもあるんですが、それら二つが入り乱れながら、でも「人と違う自分」というのをすごく自覚して育ってきました。

 中学校に入って、成長期になり、身体がバランスを崩して、病気が再発しました。今度は寝たきりの生活をしなくてはならない。シビレが足に出たり歩きづらくて、ある程度の距離が歩けない。お医者さんに「寝てなさい。寝ていなければいけません」と言われ、寝たきりになっていくんです。
 私は、親がいなくなっても自分でちゃんとしなきゃいけない、と思っていたんです。それで、「施設に入れば勉強出来る、寝たきりだけど隣の養護学校から先生が来て教えてくれるからお勉強は続けられる。どうする?」と親に言われたときに、私は自分の選択で、医療機関と生活の場がくっついていて、隣に養護学校が併設されている、そういう施設に行って寝たきりの暮らしをしました。
 そこでは障害を持った人たちばかりがいるから、自分にとって近い存在だって思えるかなって考えていたら、それがまた大きな間違いで、私は「何てこの人たち、かわいそうだろう」と思ってしまったんです。そこは母子入園といって、生後何か月かでお母さんと一緒に入園し、何か月かでお母さんと別れて、それからずっと十八歳まで施設にいるという人がたくさんいました。彼らは、家族の愛情の代わりを求めて、今日はAさんが担当の職員だったら、Aさんに気に入られる子になる。Bさんが宿直だったら、Bさんに気に入られる子になる。私はそういう動きを見ていて「何てかわいそうなんだろう。自分をどこにおいて生きているんだろう」という感じを持っていたんです。
 でも、そう感じる私だったら、私の生き方に対して施設の職員からコテンパンに、修正を求められていきました。「あなた、頭がいいだけじゃダメなのよ」と。「頭がいい」っていうのはそれまで誉め言葉だと思ってたんですが、「頭が良くってもダメなのね」となって、もともと私の中では「頭が悪いのはダメ」だったので、全部がダメになっちゃうんですよね。そうやって、「だから、大人の言うことを聞きなさい」「周りを見て、自分の行動を決めなさい」とどんどん修正をされていく。自分なりにその修正にのらなくっていいっていう思いはあったけれど、でも、そこのせめぎ合いっていうのは、やっぱり相手は大多数だし、大人ばかりだし、辛かったです。
 そして、私は動けないので、誰かに頼んで自分のご飯を運んでもらい、食べ終わったら処理してもらって、トイレも頼んでと、「それだけ人のお世話になって、あなたは生きているのよ」とガンガンと態度で示されて、施設にいる間にケチョンケチョンに自己信頼感が失われていくんです。そのように施設では人間不信ばかりを自分の中に培ってしまって、すごくしんどい思いをしました。
 しかも、他の障害を持っている仲間たちと自分との中に、また線が引かれていて、それは周りの大人から「あなたは今は寝たきりだけど、起きて歩けるようになれば、ちゃんと社会で一人前に通用する人間になれる。だから、のほほんとずっと施設で一生を送る人と、あなたは違うの。だから、あなたはしっかりしなきゃダメよ」と線引きされるんです。「頭がいいだけじゃあダメなのヨ」って言われながら、そうも言われまして、そのことにまた「ウーン」とうなるような感じでした。
 寝たきりでいた当時は「一番重度だ」と言われ、いつも自分は人から切り離されて「自分の居場所ってどこなんだろうか」って思っていた私が、今度は施設の中で、もっとずっと重度のままで暮らしていかなくてはいけない人たちと線引きされて、「あの人たちは自立出来ない人、私は自立出来る人なんだから、頑張らなくちゃいけないんだ」という重さ、しんどさを背負ってきました。私にとって「施設」というのは、幾重にも抑圧的な場でした。それで、常に気を張って生きていたと思います。
 その後の紆余曲折を経て、寝たきりの生活には三年間で何とか終止符を打ち、自分がやりたいと思うことをやってきました。そして1981年の「国際障害者年」のときに、障害者の国際的なネットワークがどんどん生まれるようになったんですが、そのとき、私はアメリカに行く機会を得ました。「アメリカに行きたい」と思ったのは、「息をすることと、口にものを入れてもらったら食べるということと、それから喋るということと、考えるということしか出来ない、それだけが自分の力だ」と言う、アメリカから来た重度の障害者に出会ってからです。呼吸器をつけてアメリカから日本にやって来たその彼は、「障害はパワーだ、エネルギーだ」って言ったんですね。
 それまでの私は、障害に「自分が引いたわけじゃないけど人生の損なくじをひいてしまった」という、マイナス評価をしていたんですけど、でも彼は「パワーだ、エネルギーだ」って、「障害があるからこそ、自分たちは障害のプロフェッショナルとして、それをキャリアにして仕事にしてきたんだ」と言って、「あなたたちだってそれができるはずだよ」と日本の障害をもった仲間たちに呼び掛けたんです。私は「そんなことを言える背景って、何なの?」と、その根源を見つけたい思いで、アメリカに行きました。
 そこで感じたことは、「自立の概念の違い」でした。私は施設で身の回りのことを自分で出来る「身辺自立」と、大人になったら仕事をして、稼いだお金で暮らしていく「経済的自立」と、その二つがなければ自立じゃないって叩き込まれてきたんですけれど、アメリカの自立の概念というのは、「生活の一コマ一コマを自分がどう選び、そして決定をし、それに責任を持って暮らしていくか」ということでした。それで、私は本当に「目からウロコ」というか、ほっとしたというか。「自己決定権・自己選択権を自立って言うんだったら、私がいた施設でずっと暮らしていくような人たちも自立することは可能だし、その自立をする権利を持っているんだな」と思えたことは私にとってすごく大きかったんです。
 当時、私は町田市で重複障害の人に関わっていて、家の一番奥の、床の間にTVがある部屋にずっとポツンと暮らしているという、重度の障害を持った人を訪ね歩き、引っ張り出していくという仕事をしていました。そういう人たちにも自分の生活を選ぶ権利があるという、自立の新しい概念を得たことは、私に大きな影響を与えました。ああ、あの人たちに「あなたたちは仕様がないわね。あきらめてね」じゃなくて、「一緒に自立して暮らしていこうよ。どんなふうに暮らしたいか、あなたが決めていいのよ」と言えるのは、私には本当に喜びで、障害をもった人たちが自分たちの生きていきたい方向性を社会に働き掛け、社会を変えていくという活動を、仲間とともにやっていきたい、と思ってアメリカから帰ってきました。
 今の日本で障害をもった人たちはどういう暮らしをしているのかといえば、生まれたとき、あるいは幼いときに障害者になると、その人たちは「障害者の路線」を歩まされるんです。「養護学校」とか「特殊学級」とか、みんなの視界の中にはチラチラいるけれどともに生きている感じではない形でどことなく隔離され、その人たちが行く場は決められている、そういう暮らししかしていない人がまだまだ大多数だと思います。でも、施設という管理のもとではなく、また、親もとという庇護された関係をも自ら断ち切って、「自分は一人で生きていく」と飛び出して、地域で暮らし始めた障害者たちはたくさんいます。
 日本は、隔離・分離教育の徹底が根底にあって、社会の環境がいろんな人たちがいることを想定して作られてはいないために、すべてに大きな社会的な障壁があります。私たちが映画に行こうにも階段があって映画館に入れない、駅でもものすごい階段があって、エレベーターが完備されていないとか、そういう作られた障壁がたくさんあるんです。それらを何とか、あきらめたりくぐり抜けたりしながら生きている人たちが、今、地域で共存して暮らせている、障害を持った人たちです。
 アメリカから帰ってから、私が日本で最初の自立生活センターを立ち上げたのは、1986年の6月です。全国の障害をもった人たちが、自分たちは地域の中で生きたいという思いを実現する場、そして障害をもった仲間を同じ仲間としてサポートして自立を支援するセンターとして、それはスタートしました。そこではまず、規定で代表とか事務局長とか、つまり会の顔と頭脳に当たる二つの役職が、必ず障害者でなくてはならないこと、そして、理事会や運営委員会とかそういう最高決定機関の51%以上は障害者であることが定められています。自分たちがこれまでに欲しかったサービスを、行政のドアを叩いて、その高い壁を何とか切り崩して、「介助者・ヘルパーをもっと増やして」とか、「年金、ちゃんと下さい」とか、「介助料をちゃんと出して」とか、そういう要求をしてきたのですが、自分たちが欲しいものは自分たちが一番よく知っているんです。だから、自分たちでそれを作り出して、地域の仲間のために活用していく、介助サービスもその一つです。
 それ以外には、「自立生活プログラム」というプログラムを作っています。若い障害を持った人たちが自分の人生をこれからどう組み立てていくのか、どう生きていきたいと思っているのか、あなたが思っていることをちゃんと言葉に出していいよという場を持つ。その人たちも今まで本当に「考えてもしようがない」と思って考えなかったりとか、「考えることも必要」と言われてこなかったり、つまり、親もとにいて親が年をとっちゃうと施設へいくという人生しかないみたいに思わされてきているのです。そんな多くの人たちに「寝た子を起こす」作業をし続けているわけですめ。「あなたはどうしたいの?」って。

『みんな子どもだった』ティーンズ・ポスト、2001年3月20日


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